Flavio de Carvalho フラヴィオ・デ・カルヴァーリョ
1899 - 1973 | ブラジル
画家・建築家・作家・劇場監督・デザイナー・彫刻家・エンジニア
BIOGRAPHY
ブラジルのモダンムーブメントを代表するアーティストの一人。
ル・コルビュジエに「ロマンチックな革命家」と評されたフラビオ・デ・カルバーリョは、建築家・作家・劇場監督・デザイナー・彫刻家・エンジニアなど様々な芸術分野で革新的かつ挑発的な活動を行い、その才能を発揮しました。
当時、それらの活動は社会的な評価を得ることが叶いませんでしたが、今日では、豊かで多彩な作品を残した先見性が認められ、特にその絵画作品は世界で最も重要な近代美術館のコレクションの一部となっています。
同様に、フラヴィオは、ブラジルの近代建築の先駆者の一人ともみなされています。フランスのジャンソン・ド・セイリー高校で学んだ後、イギリスのダラム大学で土木技師の学位を取得、1927年のブラジルへの帰国後、サンパウロの知事公邸建設コンテストに参加。このプロジェクトは、彼の前衛的な側面から大いに議論され、採用は叶いませんでしたがボリュームの分解、スポットライトが空に放つ光の戯れの劇的な激しさを特徴とする建物の記念碑としての側面が注目を集めました。
1930年にはアメリカ建築家会議に参加、オズワルド・デ・アンドラーデの「カニバリズム」理論に基づく「裸の人間の都市」と題する印象的な講演を行っています。その後、さまざまな建築コンテストに参加。サンパウロのアラメダ・ロレーナ通りの集合住宅(1936 - 1938)、カプアバ牧場(1939)など、 どちらもブラジルにおける近代建築の先駆者としての作品を残しています。
このカプアバ牧場の農家は、生活と思考の新しい形態に対応する彼の建築的アイデアを完璧に統合しています。その家具のほとんどを彼がデザインしており、この時にデザインしたFDCアームチェアは彼の家具における代表作となっています。
BIOGRAPHY
1930年 | アメリカ建築家会議に参加、オズワルド・デ・アンドラーデの「カニバリズム」理論に基づく「裸の人間の都市」と題する印象的な講演を行う。 |
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1931年 | 人類学と精神分析の研究により、"実験その2”を行う。この行為は侮辱とみなされ、ヒステリーを起こした参拝者の群衆にリンチされそうになったが、最終的に警官隊に救われた。これらの先進的な活動は、アメリカにおける60年代の「ハプニング」の先駆者の一人とみなされている。 |
1933年 | 現代美術家クラブ(CAM)を設立。サンパウロの文化・生活に刺激を与え、芸術家・作曲家・作家・精神科医を集め、さまざまな分野に関する討論の場の創設に参加。 この枠組みの中で劇場を設立、実験的な演劇とダンスのショーである「死せる神の舞踏会」を演出。俳優たちはほとんどは黒人で、アルミの仮面をつけ、ダイナミックでシュールな動きをした。 この時、300人以上の知識人が参加したにもかかわらず、ダダイズム運動の影響を強く受けたこの演劇は破壊的だとみなされ禁止され、警察は劇場を閉鎖。このエピソードにより、CAMの活動は終わりを告る。 |
1933年 | 初めて絵画の個展を開催。またも警官隊が介入し展覧会は閉鎖、わいせつで不道徳とみなされた5点の作品が没収された。翌日、この差し止めに抗議するため、彼はサンパウロのすべての彫像に白いキャミソールを巻いた。 |
1936 - 1938年 | サンパウロのアラメダ・ロレーナ通りの集合住宅を手がける。 |
1939年 | カプアバ牧場を手がける。その家具のほとんどを彼がデザインし、この時にデザインしたFDCアームチェアは彼の家具における代表作となる。 |
1947年 | 9枚の肖像画からなる「悲劇的なサイクル」を描き、癌の犠牲となった母親の苦悩と死を速い筆致で描き出している。この時、アシス・シャトーブリアンは彼を「呪われた画家」と評した。数日後、なぜこのような肖像画を描いたのかと質問されたフラヴィオは、「彼女の大きな苦しみを忘れたくなかった」と答えた。 |
1950年代 - 60年代 | 女性のヌードを描き、デッサン・水彩画・彫刻に専念。ブラックライト用の燐光インクなど、最後の作品に新しい素材を用いる。不遜で挑発的な文化的リーダーである彼は、マルチメディア・アートの先駆者とみなされている。 |