芸術と工業の一体化を推進するポンティの姿勢は、1932年にピエトロ・キエーザの工房と、ルイジ・フォンタナの工業用ガラス工房が統合した背景から来ています。
ポンティが予想したこの相反するもの同士の調和と収束は、キエーザが Luigi Fontana 有限会社より一部受け継いだ新企業でアートディレクターを担当することでまとまりました。このような流れから FontanaArte は、20世紀の応用美術における唯一例として地位を確立します。
スイス、ティチーノ州の名高い芸術一家に生まれた Pietro Chiesa(ピエトロ・キエーザ)は、ミラノの有名な家具職人や装飾家のもとで修行を積みました。
1921年、彼は自身のガラス工房 Bottega di Pietro Chiesa 有限会社を設立し、芸術家や建築家と密接に仕事を始めます。
1923年には、応用芸術の振興に伴い、Gio Ponti(ジオ・ポンティ)、Tomaso Buzzi(トマソ・ブッツィ)、Emilio Lancia(エミリオ・ランチア)、Michele Marelli(ミケーレ・マレッリ)、Paolo Venini(パオロ・ヴェニーニ)、Carla Visconti di Modrone(カルラ・ヴィスコンティ・ディ・モドローネ)らと芸術協会 “Il Labirinto(イル・ラビリント)” を設立。
Pietro Chiesa(ピエトロ・キエーザ)を迎え、広がりを見せるガラス表現。
キエーザは芸術的な窓の制作に長けており、1925年には、豪華客船サトゥルニア号、ヴルカーニア号、コンテ・グランデ号、コンテ・ディ・サヴォイア号のステンドグラス・パーテーションを担当します。
1929年には、Gabriele D'Annunzio(ガブリエレ・ダヌンツィオ)の依頼を受け、イタリア北部ガルダ湖にある邸宅のステンドグラスを制作。この頃、Pietro Chiesa は新しいガラス加工技術を追求し、不透明ガラスやエッチングガラスへの専門性で独創的な妙技を極め、後に Gio Ponti(ジオ・ポンティ) によって「ガラス加工技術における最も大胆な現代性を表現している」と称されるようになります。
その間、キエーザは1925年のパリ装飾芸術博覧会やケルン、バルセロナの展覧会に参加。1930年には第4回モンツァ・トリエンナーレへ参加し、サンドブラスト技法の鏡やガラスのパーテーションを展示しました。
1932年、第18回ヴェネチア・ビエンナーレから帰国した彼は Luigi Fontana & C. のパートナーにならないかという誘いを受け、自分の工房を新会社へ統合し、FontanaArte 設立に至ります。
1935年までポンティと共にアートディレクターのポジションに就き、その後、単独でディレクターを務めます。
FontanaArte でキエーザはクリエイティビティを十二分に発揮し、ポンティも「FontanaArte は、彼にロマンティックで刺激的なフォルムの探求、複雑で巨匠的な創意工夫が必要とされる分野への進出、思い切ったフォルムの表現、繊細な配置を試す機会を与えた」と記しています。
彼のアートディレクションの下、約1000種類ものオブジェ(家具、ランプ、皿、箱、肖像画や写真の額縁、鏡、彫刻、ステンドグラス窓など)が著名なアーティストのデザインに基づいて制作されました。
そのうちのいくつかは様々なカテゴリーの原型となり、イタリアンデザイン初期のアイコンとなります。曲面ガラスのフォンタナ・テーブル(1932年)、カルトッチョの花瓶(1932年)、ルミネーター・ランプ(1933年)などが含まれ、これらは一度も廃盤になることなく、持続的なデザインであることを証明しました。
時代の勢いとともに磨きがかかる装飾性。
1950年代から60年代にかけての社会における装飾と消費への熱量は凄まじく、この時期の FontanaArte では20世紀で最も熱心なガラス工芸の巨匠 Max Ingrand(マックス・イングラン)の個性が輝きます。
彼は少年時代をフランスのシャルトルで過ごし、地元の大聖堂にあるステンドグラスに魅せられ、後にパリの有名な装飾芸術学校で学びました。
パリに移ってからは、当時の卓越したガラス工芸家に師事、やがて芸術的なガラス制作の名手となります。第二次世界大戦後、彼は砲撃で破壊された多くの大聖堂のステンドグラスの再設計と再建のため召集されます。
その後に訪れる好景気では、国家の再生と誇りの象徴としてフランスで最も有名な客船の内装を担当します。たとえばフランス号では、一等客室のプールを取り囲む舞台芸術のような「光の壁」のデザインを手がけました。
1954年に FontanaArte のアートディレクターに任命され、装飾的な要素をプロダクトに取り入れていきます。彼の芸術的なディレクションは、洗練された高品質な職人技と独創的な素材の組み合わせから成る一点ものの魅力が特徴的で、それを限定シリーズとして絶えず生産し続けました。彼が手がけた Model 1853(現在は "Fontana" の名称で販売)はすぐにヒットし、単色、単一素材の「完全ガラス製」ランプシェードの国際的な原型となりました。